・2018年6月5日(火)「ビビット」(TBS系)出演
※「人生シリーズ」というコーナーで、約15分間の特集
・2018年6月1日(金)「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」(TBS系)出演
※2015年の放送後、健太郎くんの3年間の成長に密着
いちばんじゃなくて、いいんだね。
こんにちは。松野明美です。
私にとって2度目の出産は、
なんとも奇妙な「音」とともに記憶されています。
その前年に長男を産んだときは、初産で24時間かかったものの
出産と同時に「オギャ~オギャ~」という元気な産声が産室に響き、
安心することができました。
ところが今回は、期待していた産声が聞こえません。
代わりにお医者さんと看護婦さんが、
赤ちゃんのお尻を必死にたたいています。
「パン、パン、パン」
やがてか弱く「フギャ」という
弱々しい声が聞こえました。
なんて浅黒い肌の色をした子なんだろう…。
しかも、体がやわらかすぎて抱っこすらできませんでした。
次男がお腹の中にいるときから、病院の先生に
「心臓に欠陥があるかもしれない」と言われていましたが、
そう言われたときは
「健康体の私から病弱な子が生まれるはずがない」と
思っていたんです。
ところが実際に出産してみると先生から、
こう言われました。
「赤ちゃんは重い心臓病です」
通常、血中酸素濃度は95~98と言われていますが、
この子は心臓に欠陥があるために
生まれたときに80しかありませんでした。
常に酸素が足りないので、呼吸が苦しくて肩で息をしている状態です。
体が黒ずんでいて唇が紫色なのは、そのためでした。
大きなショックを受けた私は、次男の生後10日後、
先生からもう一つの宣告をされることになります。
「お子さんはダウン症です。
心臓の欠陥は、ダウン症の合併症からくるものです」
ダウン症……。それがなんなのか、
私にはわかりませんでした。
聞いたこともない名前だったのです。
先生の言葉を聞きながら
私は必死に理解しようと努めました。
こんな小さな体でこんな重い心臓の病気も持っているのに、
そのうえ、障がいまであって生きていけるのだろうか……。
そんなネガティブな思いをふり払うように、
私たち夫婦はわが子の名前に健康の「健」という字を入れました。
少しでも長生きしてほしい、がんばって健やかに成長してほしい、と
祈るような思いをこめたのです。
健太郎をめぐるある矛盾した思い……
私たち家族には想像した以上に
たくさんの試練が待ち受けていました。
健太郎が風邪をこじらせ、鼻をつまらせて呼吸困難になり、
心臓に負担をかけてしまうことがありました。
心臓に水がたまり、入退院を繰り返す生活。
看病のために、夫と私は眠る暇のない日々を繰り返していました。
小さな体で懸命に生きる健太郎の姿を見て
過剰なまでに愛おしく、大切に感じる一方で、
私にはある矛盾した思いがありました。
それは、ダウン症である健太郎の存在を、
「世間にはけっして知られてはいけない」ということ。
出産後の私は、
タレントとしてテレビのバラエティー番組などに
出演する仕事も再開しました。
世間が私に抱く、
「いつも元気で明るい松野明美」のイメージを守らなくてはいけない。
そのためには、健太郎の存在は決して知られてはいけない。
健太郎と外出するときは、
帽子を深くかぶり顔を隠しました。
近所の人に「松野さん、二人目が産まれたんだって」
と声をかけられても、「ええ」とただ愛想なく返事していました。
今思えば、息子の障がいと正面から向き合うことが
できなかったのだと思います。
健太郎は心臓の大手術を乗り越え、
すくすくと育ち始めましたが
障がいを持っているために、健常者のようなスピードで
発達していけません。
お兄ちゃんがその月齢でできたことが
健太郎にはできない。
3歳になっても話すことができない…。
おむつがとれない…。
私はマラソンランナーとして勝負の世界で
生きてきました。
人生は勝ってこそ意味がある。
いちばん以外は2番もビリも同じ。
とにかくトップをとるためだけに自分を鍛錬してきました。
人の2倍、3倍、それでも勝ってないときは、4倍の練習をしていました。
それは芸能界に入ってからも同じです。
「私がいちばんウケなければ」と
ほかの芸人さんに負けないように
どんどん前に出てマシンガンのように話す。
いちばんになること。
それが私のすべてでした。
そんな私は、健太郎の発育の遅さに
イライラしてしまうこともしばしばでした。
「なんで教えたことができないの!」
今からふり返れば、
わが子の成長の遅さを受け止めることができない
私の至らなさでした。
皆と健太郎は違うということを、頭でわかっていても
心で受け止められない……。
「なんでこの子を産んでしまったのか」という思いにとらわれて
もんもんとしてしまう日々。
この子の存在を世間に隠さなければ、
私自身が「負け」を認めたことになる…。
私の中で希望と憂うつが激しくせめぎ合い、
この大いなる矛盾の渦から抜け出せない暮らしが、何年も続きました。
公表のとき
「まつのせんぱ~い、まってくださ~い」
ある日のこと。
私がいつものようにジョギングをしていると、
高校時代の陸上部の後輩・山崎さんが後から声をかけてきました。
彼女は息を切らしながらも私と並走し、
こう言いました。
「先輩、今気になっているのは健太郎君のことでしょ。
早く専門家にみてもらったほうがよかよ。
『こじか園』に連れていったほうがよかと思うよ」
山崎さんは何度か我が家に遊びにきたことがあり、
健太郎を見た山崎さんは、息子の障がいを知っていたのでしょう。
「先輩。ダウン症の子でも、保育園に行く前に療育を受けたほうがよかよ。
連れていくなら早いほうがよかよ、先輩」
気さくな山崎さんのこの一言が、
私の目の前を覆っていた深い霧を
晴らすことになろうとは、
そのときは思いもよりませんでした。
2007年の11月。
健太郎は、児童デイサービス事業所
「こじか園」を訪ねることになります。
健太郎にとってそれは、初めて家族以外の人と
本格的に触れあう機会でした。
この日から週に5日、毎日2時間、障がい児の専門家である先生たちと
健太郎のマンツーマンの触れ合いが始まったのです。
そこから健太郎には、
驚くような変化が次々と起こることになります!
そして、こうした変化をきっかけに
私自身も息子を連れて少しずつ人前に出るようになっていきます。
競争で勝つことしか頭になかった私に健太郎は、
「自分のペースで走ることが一番大切」
であることを教えてくれたのです。
彼の存在がなければ、
私は人間として本当に大切なものに
気づかないで過ごしてしまったはずです。
ありがとう、健太郎。
私を選んで生まれてきてくれて、本当にありがとう。
健太郎のことをもっと知ってほしい!
私は健太郎と過ごす日々を通して、最近ではこう思うようになりました。
「障がいをもっていても堂々と前を向いてほしい。
そしてその歩みを助けるような国になってほしい」
そのために私にできることは何か。
そう考えたときに、私自身の歩みを、
本や講演などで皆さんにお伝えしていくことが
いいのではないかと思うようになりました。
「こじか園」に通い始めてから起きた
健太郎の大きな変化や、
それをまのあたりにすることによって
大切なことに気づかされた私の心模様を、
1冊の本にまとめました。
『いちばんじゃなくて、いいんだね。』
お子さんに障がいがあるかどうかに関わらず、
子育ては本当に大変なこと。
子どもたちの成長を見ながら、
親も成長していかなければいけませんよね。
そこには多くの苦労や挫折、戸惑いがあります。
私もまだまだ子育てのまっ最中。
日々、反省することも多い未熟者ですが、
私の経験をお伝えすることで少しでもお役に立つのなら、
心から嬉しく思います。
そして何より、
「人生は人との競争じゃない。
苦しくなったら立ち止まって、自分のペースで走ればいい」
それを一人でも多くの方に知ってほしい!
そんな思いで本を書きました。
また、このサイトは、子育てに悩むママやパパたちの
「ひろば」になればと願ってつくりました。
子育てについての思い、
わが子の才能を引き出した実体験、
そして私の本に対するご感想などなど、
をお寄せいただければ幸いです。
matsuno@ascom-inc.jp
私たち親が、深く深く子どもを愛した分だけ、
社会がよくなる。
健太郎に負けないように
私も成長しなくっちゃ!
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